埋もれた青春(角川書店)

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◆或る種の愛情
今さらのように、こんな女に、一度は溺れた自分の馬鹿さ加減。つくづく愛想が尽きる。そんな女から、妊娠したと、五十万円要求された。女が働いている店に電話して、店の裏に、五十万円を持って行くと、女に伝えた。店の裏で、男は内ポケットから、封筒を取り出して、女の手にのせた。「五十万ね。---持ってみると軽いもんだわね」「たぶんあると思う。借りて、そのまま持って来たんだ」「じゃ、数えとかなきゃね」女は封を切ると、男に背を向けて、明かりの下へと歩いて行った。男の手が、右のポケットから、ビニール紐を取り出した。両手に素早く絡めて、ピンと張る。「---何だか変よ、この札」と、女が言って、振り向きかけたところへ、後ろから、紐を首に巻きつける。・・・・・・・全身、大雨にでもふられたように、びっしょり汗をかいている。---やったのだ。ともかく、やってしまった。もう、後悔したって始まりゃしないのだ。早く逃げなきゃ・・・。「よし・・・・。行くぞ」と呟いて、歩き出そうとしたとき、ガタン、と音がして、段ボールが一つ、バランスを失って、転がり落ちた。そして---そこに、女の子の顔があった。十五、六か、いかにも上京して来たばかりという様子の、よく太った丸顔の少女だった。男が気付いたのは、店のわきを抜けて、表通りに出てからだった。---見られたのだ。その後男は、真面目に大学に行き、成績も悪くなく、多少のコネもあって、一応一流といわれる企業に就職した。そして、結婚し、娘も生まれた。そして、十五年、殺人事件の時効成立が、近づいていた。そうなんですね、昭和の時代は、殺人事件も時効があったんですね。もちろん、まさか、という気持ではあったが、あと一日で時効というとき、刑事がいきなりやって来て、冷たい手錠が光る・・・・。そんな夢を、このところ何度か見るようになったのだ。あと一か月足らず・・・・・。男は、娘と、スーパーの向かいにある軽食・喫茶の店にいた。「---お待たせしました」コーヒーが来た。「ありがとう」と、男は言った。ふと、顔を上げる。---この店には、年中来ているが、見たことのない女性だった。年齢は三十ぐらいか、ふっくらとした丸顔で、ややつかれたような印象がある女性だ。その女性が男を見た。そして、一瞬、ギクリとしたように、目を見開いたのである。やばー、あと少しだったのに?どうなるのでしょうか??

◆埋もれた青春
「ええ、ごめん下さい」と、玄関の戸を開けながら、男は言った。「おいおい」と、笑いながら、副所長が歩いてくる。「だめですか」と、男は頭をかいた。「自分の家に入るのに、『ごめん下さい』ってのがあるか、『ただいま』と胸を張って入りゃいいんだ」「はあ」「そんな風にコソコソ入ったら、泥棒と間違えられるぜ」「そうですか」男は苦笑した。「結構むずかしいもんですね」「もう一度やってみろ」「はい」・・・・・。何をやっているかと言うと、男が、自分の家に帰る練習をしているのだ。男は、刑務所に二十年入っていて、三日後に出所するため、外へ出て、戸惑うことがないように、実生活の訓練をしているのだ。そうね、二十年経てば、世の中大きく変わっていますよね。刑務所に入るって、大変なことなんですうね。「---お世話になりました」と、男は頭を下げた。「元気でな」白髪の守衛は、ちょっと笑顔を見せた。---男は、通りに出た。「車に気を付けろよ」と、守衛。妻には、連絡してあった。当然迎えに来るものと思っていたのだ。しかし、一向に来る様子もない。「仕方ないな---」駅がどこか訊いて、家に帰ろう。男は、歩き出した。すると、スポーツカーが、男を追い抜いたと思うと、キーッとブレーキをきしませて停まった。ドアが開いて、スラリと長身の、髪の長い女が降りて来た。まだ若い---たぶん、二十五、六だろう。「ねえ」と、その女が声をかけて来た。「私のこと分からないの?」「フフ・・・。迎えに来たのよ。お父さん」男はポカンと口を開けた。・・・「ともかく乗ってよ。家に行きましょ」娘が、男を車に押し込んだ。「さ、行くわよ」ぐいとアクセルを踏む。いきなり凄いスピードで発進して、男はあわてて手にした荷物をかかえ込んだ。「これはお前の車なのか?」「そうよ。---お母さんが本当は来るはずだったけど、仕事が忙しくて、どうしても抜けられないんですって・・・」 ---車は、真新しいビルの立ち並ぶ通りへと入って行った。そしてビルの合間を抜けると、一つのビルの裏口へとつけて停まった。「さあ、ここよ」男は面食らった。「おい、これが家か?」「この上なの。ともかく、入りましょ」「このビルは何だい?」「お母さんの持っているビルなの」男は唖然として言葉もなかった。妻がビルを? 七階でエレベーターを降りる。立派な木のドアをノックして、「お父さん、連れて来たわ」広々とした部屋に、何十人もの人間が集まっている。それが一斉に男の方を見て、拍手をしたのだ。呆然としている男の方へ、一人の女がやって来た。「お帰りなさい、あなた!」あなた?これが妻か?笑顔に、面影はあった。しかし、そう言われなければ、とても分からなかったろう。派手な赤のスーツ、キラキラ光るネックレス、髪は赤く染めて、眉もかいてあるのだ。男、浦島太郎状態!どうなってしまうのでしょうか?

◆理由なき反抗
「おはようございます」と挨拶した女子社員が、その後、こらえ切れない様子で、クスッと笑ったのである。どう見ても、他の何かを思い出して笑ったという風ではなかった。勤続二十五年になる男を見て、笑ったのである。また一人、事務服に着替えた女子社員が、女子のロッカールームの方から歩いてくる。「おはよう」「おはようございます」と、挨拶を返して---こちらは、もっとはっきり、声をたてて笑いながら、走って行ってしまった。男は、ポカンとして、突っ立っているばかりだった。昼休み、男は、屋上に出た。「珍しいじゃない、屋上に来るなんて」会社の女子社員の中でも一番の古顔が、声をかけて来た。「笑わないのかい?」「どうして?」「僕も、のんびり事務所の席に座っていたいよ。しかし、僕の顔を見て、女の子たちがクスクス笑ってるんだ。落ちついて座っちゃいられないよ」「顔にゴミでもついているのかと思って、朝から三回も顔を洗っちまったよ」「ああ、あれね」「今朝、ロッカールームで、若い子たちが話してたわ」「昨日から始まった、何とかというホームドラマがあるのよ。・・・・その主人公があなたとそっくりらしいの。それで、みんな笑っているのよ」・・・・。「何よ、それ?」話は変わって、笑われた男の娘だ。「〈ガラスの家〉っていうの。見なかった?」「ゆうべ、九時から。六チャンだったかなあ」「TV番組?知らないわ。九時からだったら、お勉強の最中よ」「父親が全然パッとしないのね。窓際族みたいでさ。奥さんと---娘が高一、弟が---いくつ?」「十二歳」「どう思う?」「どう、って?」「おたくとそっくりでしょ」「主役が、あなたのパパ、そっくりなんだよね」「暴走族の男の子が出て来たわよ。きっと、あの女の子と恋人になるんじゃないかな」・・・・。またまた話が変わって、笑われた男の妻が、近所の奥さんたちに、すっかりからからかわれてしまって、少々不機嫌だ。「あれ、おたくがモデルなんじゃない?」「ご主人は若いOLとオフィスラブ、奥さんは、昔のボーイフレンドとバッタリ出会って、不倫に走るのよ!羨ましいわ」---だって!馬鹿らしい!・・・・。この家族と似た家族のドラマが始まったらしいのだ。娘の恋人が、暴走族の男、主人が、オフィスラブ、奥さんが、不倫・・・・こんなことがあるわけない!この家族は皆、そう思ったのだ。ところが、どうだ、この家族に、ドラマと同じ出来事が、次から次に、現実になって来るのだ。こわー!この家族、ドラマの最終回まで、持つのでしょうか?

◆家族日誌
女性は、まだ明け切らない早朝の町へと足を踏み入れた。足が勝手に動いて、病院からどんどん遠ざかっていた。女性の夫が亡くなったのだ。大学を中退し、遊び暮らして、やっと仕事に就いたのは、もう三十歳。その仕事も、気に入らなければ三日でやめ、三か月遊ぶをくり返してきた夫だ。何をやってもうまく行かず、いつも、「俺はツイていないんだ」と言っていた。こんな夫と女性は結婚した。「私がついていないと、この人だめなんだ」が、結婚した理由らしい。苦労を自ら背負いこむなんて、こんな女性いるんですね。その女性が、掃除をしていて、廊下に落ちているキーホルダーに目を止めた。いやだ、落としていったんだわ。朝、あんなにあわてて出て行くから・・・・。家の鍵は良いが、一緒についているのは、会社のキャビネットか引き出しの鍵らしい。どこで落としたかと青くなっているかもしれない。女性は、掃除の手を休めて、会社へ電話してやることにした。「---もしもし、営業のXXをお願いしたいんですが。家内ですけど」向こうは戸惑ったようだった。「XXさん・・・・ですか?」と、問い返してくる。「はい。営業のXXです」「奥さまですね?少々お待ちください」少し間があった。「もしもし」男の声がした。「課長のYYと申しますが」・・・・「ご存じないようですね。ご主人は一週間前に辞められたんですよ」「辞めた・・・・」「ちょっと問題がありましてね。私がよく話をして、辞めてもらったんです。きっと何か他の仕事にでも---」女性の顔から、血の気がひいて行った。まあ、こうなることは、最初か承知していたことで、大したことはないのであるが、男がクビになったことで、女性と口論なり、男は、マンションを飛び出して---泥酔したあげく、車にはねられたのだ。電話。そうだ。電話をかけなくては。女性は、電話ボックスから電話した。「もしもし。お義兄さんですか」「あいつは?」「亡くなりました。---少し前です」「そうか」「今、病院から?」「病院の---近くです。外へ出ているんです。少し歩きたかったので」「ご苦労だったね」「今からすぐ行く。後は私に任せなさい」本来なら、そこまで甘えていいものかどうか、迷っただろうが、しかし、今の女性には、「よろしくお願いします」という力しかなかった。お義兄は、夫と対照的に、地道な商売と、機を見ての大胆な行動で、財を築いた。女性たちが住むマンションも、お義兄から提供されているものだ。お義兄は、四十歳にもなって、未だ独身を通しているのは、事業家として忙し過ぎるらしいのだ。さて、この後の展開、どうなるのでしょうか?

◆草の上の昼食
主役の教授の講義にあっては、冗談と息抜きといった、今日の大学において不可欠なものが、存在を許されていなかった。冗談のみの講義ならまだしも、冗談なしの講義となると、これはもう、学生たちが一切寄りつかないのが当然である。従って、この主役の教授の講義が、常にほぼ満員の盛況であることが、この大学にとっては、七不思議の一つに昔から数えられていた。もっとも当の教授は、自分の講義を聞いている人数が何人など、気にしたこともなかった。大体、誰の講義でもそれくらいの人数は集まっているものだと思っている。だから、時折何かの用で他の教授の講義を覗くことがあると、「風邪でもはやっているのかね?」と訊いたりするのだった。他の教授たちにとっては、当然のことながら、皮肉を言われたような気がして、面白くない。だからこの教授は、その立派な業績や、研究にもかかわらず、仲間に嫌われていた。この教授は、学問以外のことは、てんで関心も興味もない堅物で、実生活でも酒を飲まず、遊びもせず、女にも関心がなく--従って、四十八歳の今に至るまで独身を貫いているのだ。いつもながら、その教授の講義が、咳一つもよく聞けるほどの静寂の中で続いていた。そこへ、急に入り口のドアが、バタンと開いた。誰だ、うるせうな。何人かの学生が、顔をしかめて振り返ったが、そのまま、ポカンとして闖入者を見つめた。右手にコウモリ傘を、左手に風呂敷包みを持ったその女は、目を丸くして、教室を見回していたが、「大っきんだねえ!」と、素頓狂な声を上げた。この声に、教室の大半の学生たちが振り向いた。若い女は、教壇に立っている教授を見つけると、顔を輝かせた。突然、かん高い声で、「教授!」と叫んだのだ。・・・・「君は何だね?」「やだあ、先生!冗談ばっかし!」と女はゲラゲラ笑った。クスクスとか、ハッハとか、そんな生やさしいものではなかった。正にゲラゲラという感じの笑いが、教室に広がって行ったのである。かくして、およそ教官として教壇に立つようになって以来初めて、講義を中断せざるを得なくなった。女を研究室に連れて行き、「君は・・・名前何というの?」「あら、やだあ。忘れちまったんですか、先生」・・・・「それでその・・・・僕に何の用があるんだね、君は?」「先生、いつでも訪ねておいで、とおっしゃったじゃねえですか」・・・・「今、四か月なんで・・・」「赤ん坊です」「先生の子です」と来た。やっちまった、この教授。堅物で、女に関心がなかったはずですが?どうなっているんですかね??ざて、どうなる???

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